国連方式の国旗の縦横比は2:3ですが、フィリピンでの正式な縦横比は1:2です。 つまり、横幅は縦幅の2倍です。 白い三角形は正三角形で、一辺の長さは、旗の幅と同じです。 フィリピンの国旗は4つの色からなる国旗である。白は平等と友愛を、青は平和、真実と正義を、赤は勇気と愛国心を象徴し、黄色い太陽は自由を意味している[1]。3つの星は主な島であるルソン島・ミンダナオ島・ヴィサヤ諸島を象徴している。太陽から伸びる8本の光条は、フィリピン独立革命の際、最初に武器を取ったルソン島所在の8州(パンパンガ州、ブラカン州、リサール州、カビテ州、バタンガス州、ラグナ州、タルラック州、ケソン州)を表している。, 戦争の時には、天地を逆にして「勇気」「愛国心」を表す『赤』を上にし強調するという、他の国旗にはなかなか見られない特徴を持つ[2][3]。, この国旗は米比戦争中の1907年より、フィリピン第一共和国が崩壊しアメリカ合衆国に占領された後、1919年10月30日まで掲揚が禁止された[4][5]。, 2009年9月27日、国会は、スペイン植民地時代にも屈服しなかったムスリムに敬意を表し、光条を1本増やして9本とする議案を可決[6](2020年6月現在、デザインはまだ改定されていない)。. 独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。リサールは、1896年12月30日に銃殺された。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルド[10]らの独立運動を利用するため支援した。ただこれは、後に判明するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった。, 1899年6月12日、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。, なお、征服者レガスピの1567年の書簡に、当時すでに日本人がミンドロ島やルソン島へ毎年交易に来訪していたことが記されており、日比の交流はスペインが占領する以前からあったことがわかっている[11]。, 米西戦争の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国(英語版)がサンボアンゲーニョ(英語版)によって建国された。, フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したものの、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗運動は武力鎮圧された。1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。1903年にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている[12]。, その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年にジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領[要リンク修正]が成立した。1920年代にRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。1929年に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった[13]。1934年にアメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り[13]、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾したことで、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた[14]。, 第二次世界大戦中の1941年12月に、アメリカ合衆国軍との間に開戦した日本軍が、アメリカ合衆国軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、日本陸軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領した。, アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も1943年5月に御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会(英語版))とビルマを独立させた[15]。1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった[16][17]。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。日本の敗戦が濃厚になると1944年12月8日に親日義勇隊のマカピリが設立されベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった[18]。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり[19]、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊された。, 1945年の日本敗戦に伴い、独立を失いアメリカの植民地に戻ることを余儀なくされることとなったが、1946年のマニラ条約(英語版)で、フィリピン・コモンウェルスの組織を引き継ぎ、戦前から約束されていたフィリピン第三共和国(英語版)が再独立した。, 冷戦下では地主支配(アシエンダ)打倒を訴える共産系のフクバラハップが勢力を拡大し、ルソン島ではゲリラ戦争が続いたが、1950年代中に共産ゲリラはアメリカからの全面的な支援を受けたラモン・マグサイサイの手によって一度壊滅した。その後、親米政権によって農地改革が行われたものの、実効性には乏しいものとなった。, 1965年より反共産主義を唱えるフェルディナンド・マルコス大統領がマルコス独裁国家(英語版)体制を築いた。アメリカ合衆国からの支持を得たマルコス政権は、20年に渡る開発独裁政権となり、イメルダ・マルコス大統領夫人をはじめとする取り巻きによって、私物化され腐敗した政権に対して、中華人民共和国やソビエト連邦からの支援を受けたモロ民族解放戦線や再建共産党の新人民軍 (NPA) による武装蜂起が発生した[要出典]。, 1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)で、民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立した。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みや兵士に花束を渡す行動を起こした。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に生放送した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は市民に銃を発砲出来無かった[20]。, マルコスとイメルダはアメリカ合衆国のハワイ州に亡命した[21]。新人民軍による三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年11月15日 - 1987年3月31日)が発生。, 第二次世界大戦後の冷戦期間中のフィリピンは、同じく西側諸国に属すこととなった日本と同様に、極東アジアにおけるアメリカの重要な拠点となり、米軍に基地を提供していたが、1990年代初頭の冷戦終結を受けた米軍のアジア駐留軍縮小、およびピナトゥボ山の噴火に伴う基地機能の低下、フィリピン国内のナショナリズムの高揚、フィリピン共和国憲法改正により、在比米軍は軍備を沖縄に集約し、フィリピンから撤退した。, フィリピンの共産主義勢力フクバラハップは、第二次世界大戦中に日本軍と戦い、日本軍の撤退後もアメリカ軍と独立後のフィリピン政府軍と戦闘を続けたが、1954年までにマグサイサイ指揮下のフィリピン政府軍に制圧された。1969年、毛沢東主義による革命と体制変革をめざすフィリピン共産党 (CPP)(再建共産党)は新人民軍 (NPA New Peoples Army) を結成し、フィリピン政府軍に対する武装闘争を開始した。NPAは、ルソン島を中心にフィリピン全国に展開し、フィリピンの軍隊・警察・インフラ・企業に対する武力攻撃を繰り返し、フィリピン政府軍はNPAの武力攻撃に対して掃討戦を継続しているが、海外のテロ支援国家の支援を受けるNPAを完全制圧することは難しく、2013年現在、武力行使は継続中である。, ミンダナオ地区にイスラム教による自治区を作ることを目的としたモロ民族解放戦線 (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年にフィリピン政府軍に対して武装闘争を開始し、MNLFと政府軍の武力紛争は1996年まで継続した。1996年、MNLFはフィリピン政府との和平協定を締結して武装闘争を終結し、フィリピン政府はミンダナオ地区にMNLFのイスラム教による自治を受け入れ、その後はミンダナオ・イスラム自治区の与党として活動している。しかし2013年9月、後述するMILF主導の和平交渉への反発から、再び政府軍と衝突した[22]。, モロ・イスラム解放戦線 (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民解放戦線 (MNLF) がフィリピン政府と和平協定を締結しようと方針転換したことに反対し、フィリピン政府軍との武力闘争を継続するために、1981年MNLFから分離独立し、フィリピン政府軍に対して武装闘争を継続した。1997年、MILFはフィリピン政府と停戦協定を締結したが、その協定は2000年にエストラーダ政権により破棄された。2003年、MILFはアロヨ政権と停戦協定を締結したが、2005年MILFは停戦協定を破棄してフィリピン政府軍に対する武力攻撃を再開。2012年10月、政府との間で和平枠組み合意に至る[23]。, アブ・サヤフ・グループ (Abu Sayyaf Group) は、フィリピンのミンダナオ島、スールー諸島、ボルネオ島、および、インドネシア、マレーシア、タイ、ミャンマーなどの東南アジア地域にイスラム教で統治する国家の設立を目ざして、1990年にフィリピン政府に対して武装闘争を開始した。アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾攻撃、暗殺、誘拐・監禁、身代金要求を繰り返し、2000年以後は活動地域をマレーシア、インドネシアへも拡大し、2013年現在、武力闘争を継続中である。, フィリピン経済に転機が訪れたのは、1990年代後半だった。1997年にアジア通貨危機が発生すると、そのあおりを受けてペソ暴落に見舞われたが、経済がバブル状態ではなかったので、財政破綻したタイ、一時期国家崩壊の危機に陥ったインドネシア、国家破綻しかけた韓国などに比べると回復は早く、IMFの管理下になることを免れた。, フィリピンの経常収支は1000万人に及ぶ海外在住労働者の送金によって支えられており、出稼ぎ、特に看護師はフィリピンの有力な産業と言ってもよい[24]。主要な貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は距離的にも近い中華人民共和国や中華民国(台湾)や大韓民国との貿易も増えている。, 東南アジアではベトナム・インドネシアと共にNEXT11の一角にも数えられており、今後も経済発展が期待できる新興国の1つに数えられている。, また、長年の懸案であった、ミンダナオ島を活動拠点とする、南部武装ムスリム勢力に対しては、MILF・モロ・イスラム解放戦線との和解交渉が成立するなどの進展が見られた。ミンダナオ島にも、アメリカなどからの直接投資も入り始めている。一方、ISILへの支持を明確化したアブ・サヤフの活動が活発化。2017年5月、フィリピン軍は、ミンダナオ島マラウィ市にてアブ・サヤフと市街戦になった[25]。, 2018年7月26日、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領はムスリムによる自治政府樹立を認める「バンサモロ基本法」に署名し[26]、翌年の住民投票の結果、従来のイスラム教徒ミンダナオ自治地域よりも強い自治権を有するバンサモロ自治地域が発足した。, 大統領を元首とする共和制国家であり、フィリピンの大統領は、行政府の長である。大統領と副大統領は、同日に別枠で国民の直接選挙により選出される。任期は6年で、憲法の規定により、再選は禁止されている。, 議会は、元老院(上院)と代議院(下院)の両院制(二院制)。上院は、24議席で任期6年。3年ごとに半数改選。下院は、憲法上は250議席以下と規定されているが、現在は214議席。20%を政党別の候補者リストから、残りを小選挙区制で選出され任期は3年である。選挙は、西暦が3で割り切れる年に行われる[注釈 2]。アロヨ政権は現在の大統領制から議院内閣制へ、両院制議会から一院制へ移行する憲法改正を提案するが進展は見られない。なお、地方自治体の州、市町村の正副首長と地方議会の議員は任期3年である。, フィリピン初の憲法は1899年に公布されたマロロス憲法であり、アジア初の共和制を定めた憲法であった。次は1902年のフィリピン組織法(クーパー法)で選挙による議会が設置された[注釈 3]。, 1935年にアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの承認と国民の賛成でフィリピン1935年憲法が実施され、フィリピン・コモンウェルスが成立、大統領の権限[注釈 4]が強化された[注釈 5]。, 1971年6月に憲法制定会議が開催され、全面的な改正に着手した。熱心な討議の末、新憲法草案は1972年11月に入って承認され、1973年1月に実施された。このフィリピン1973年憲法は、大統領制下での議院内閣制が特徴である。しかし、欠点[注釈 6]もあり、1980年と1981年に一部改正された[注釈 7][27]。, フィリピン軍は陸軍、海軍、空軍の三軍により構成される。2016年には、GDPの1.28%を軍事費に充てている。徴兵制度はなく、17歳から23歳(士官は20歳から24歳)の独身の男女で、72時間の大学の履修(士官は学士)が志願できる志願制度である。, 軍隊の始まりは、1868年にスペインが警察軍を創設したことによる。スペイン支配下では、通常軍と国家警察を使い分けた。アメリカ植民地支配下では、正規軍をマニラおよびその周辺に配置し、準軍事的な国家警察軍を全土に展開した。1916年Constabulary Academyが開校、1922年にフィリピン大学に予備役見習将校団 (ROTC) が設立され、1936年に陸海空の将校養成を目的としたフィリピン士官学校 (PMA) が設立された。国軍は治安対策であり、米軍が外的対策を担当した[注釈 8] 社会福祉法人 さぽうと21 理事長 Copyright © 2020 昼行燈ある日 All Rights Reserved. 各国には国旗があり歴史やその国の背景が影響されて出来た国旗も様々あるようですが、フィリピンの国旗はどのような意味合いがあるのでしょうか。今回の記事ではフィリピンの国旗に隠された意味をご紹介致します。またフィリピンの国旗は世界的にも珍しく状況によって国旗が変わります。 セブセレクトツアーズ編集部, 各国には国旗があり歴史やその国の背景が影響されて出来た国旗も様々あるようですが、フィリピンの国旗はどのような意味合いがあるのでしょうか。今回の記事ではフィリピンの国旗に隠された意味をご紹介致します。またフィリピンの国旗は世界的にも珍しく状況によって国旗が変わります。フィリピンの国旗の意味を知りよりフィリピンの歴史を知れるでしょう!, 金色の太陽と3つの星を組み込んだ白色、そして青色と赤色からなるフィリピンの国旗。フラグの幅と長さの比率は、通常1対2とされています。, 赤はフィリピンの「愛国心・勇気」を象徴するもので、カビテ州での戦争中に使用された色です。, 青は、フィリピン人は誰でも、侵略者に身を投じる前に死ぬことを好むであろう「平和・真実・正義」を表したものです。キューバの国旗の青色がフィリピン国旗のデザインに影響されたとしています。, 白は、他国と同様に、フィリピン人は自分たちを統治する方法を知っており、外国勢力の観測から後退しない「平等・友愛」の意味合いがあります。他には国旗の白い三角形はスペインの支配に反対した秘密結社・カティプナンの紋章を意味します。, 白い三角形の中央には、黄金色の太陽があり「統一・自由・民主主義・主権」を象徴しています。, 白い色の三角形の中心には、フィリピンの州を表す8つの主光線を持つ黄金色の太陽があります。8つの太陽光線は、フィリピン独立革命に戒厳令の下で宣言されたフィリピンの最初の8つの州を意味します。, 8つの主光線の意味は他にも「太陽とその光線がフィリピン人をかき立て、彼らの世界に広がり、それを覆っている雲を突き刺した。」という意味があります。, 黄金色の太陽のデザインは、リオデラプラタ、アルゼンチン、ウルグアイ共和国の影響を受けて採用しました。各州の名前は、マニラ、ブラカン、カビテ、パンパンガ、モロン、ラグナ、バタンガス、ヌエバエシハです。, 白色の三角に描かれる3つの星はフィリピンの主な島である、ルソン島群、南のビサヤ群、および南部の主要なミンダナオ島を象徴しています。, フィリピン国旗のユニークな機能はの戦争の時には、赤い面を上にして戦争状態を示します。国旗を天地を逆にすることで赤色の意味である「愛国心・勇気」を強調しています。, 1898年5月28日 フィリピン国旗の製作者であるエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)によってアラパンの戦いで初めて国旗が展示されました。, 1898年6月12日フィリピンの最初に使用されたオリジナルバージョンの国旗が採用され、カビテ州カウィットでの独立宣言の際に正式に発表されました。, 旗に使用されている青の色合いは、元の色のラズリロスコから始まり、時間とともに変化しましたが、1998年のフィリピン独立100周年のお祝いのために、公式の変種としてロイヤルブルーを指定するフィリピンの旗および紋章法が可決されました。, 2009年 スペイン植民地時代に屈服しなかったイスラム教徒に敬意を表し、「黄色い太陽」に9つ目の光線が付け加えられることが議案決議されましたが、実行されてはおりません。, フィリピンには国旗の禁止行為があり、違反者は有罪で罰金または懲役に処することを義務付けられているそうです。以下は、フィリピン国旗の禁止行為をまとめたものです。, 意識して改めてフィリピン国旗を見てみると様々な意味が込められていました。フィリピンが戦争時の際は「愛国心・勇気」を強調し国旗が逆さになるのも非常にユニークですね!, フィリピンの観光地と言えばセブ島!セブ島の観光の際には日本語ガイドが案内する「セブ島ツアー」の予約をお忘れなく♪. 色々な文化やそこに住む人々に触れ、価値観などが大きく変わる。. ©Copyright2020 セブセレクトツアーズ マガジン.All Rights Reserved. 2020.05.272020.07.27 Philippines : Gov.Ph : About the Philippines : RP flag to have 9th ray to the sun - INQUIRER.net, Philippine News for Filipinos, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フィリピンの国旗&oldid=78192961. フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、タガログ語: Republika ng Pilipinas、英: Republic of the Philippines)、通称フィリピンは、東南アジアに位置する立憲共和制国家。首都はマニラ市で、最大の都市はケソン市である。, 7000以上の島[注釈 1]を領有する島国であり[4]、フィリピン海を挟んで日本とパラオ、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んで中国およびベトナムと対する。, 国名のフィリピンは16世紀の旧宗主国のスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ2世国王)の名前から命名された。, 正式名称は、タガログ語ではRepublika ng Pilipinas(レプブリカ ナン ピリピーナス)、英語では、Republic of the Philippines(リパブリク オヴ ザ フィリピーンズ)。略称は、Pilipinas(フィリピン語)、the Philippines(英語)。, 日本語表記による正式名称の訳は、フィリピン共和国、通称はフィリピンである。かつてはフイリッピン、ヒリピンという表記もなされていた。漢字による表記は、比律賓[5]、菲律賓で、比島、比、菲と略される。, 国名は、1542年に、スペイン皇太子フェリペ(のちの国王フェリペ2世)の名から、スペイン人の征服者ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスによってイスラス・フィリピナス諸島(フェリペの島々)[6]と名づけられたことに由来する。, このような歴史的背景から、植民地時代の残滓だという立場からの国名変更論もある。国民的英雄と見なされる独立運動家アンドレス・ボニファシオは、「タガログ人の国家」を意味する「カタガルガン」を推していた[7]。第10代大統領フェルディナンド・マルコスは、サンスクリット語に由来し「気高く誕生した」を意味するとされる「マハルリカ」に変更しようとした[7][8]。第16代大統領ロドリゴ・ドゥテルテも「マハルリカ」への変更に対する共感を表明している[8]。, フィリピンの歴史は多様な民族によって織りなされてきた。フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。, 更新世中期の遺跡として、ルソン島北部のカガヤン渓谷にあるリワン遺跡が発見されている。そこからエレファス(古代象)、ステゴドン(ステゴドン象)、ライノセラス(古代犀)などの絶滅種の動物化石が出土し、他の出土品ではチョッパー(片面礫器)、チョッピング・トゥール(両面礫器)、フレーク・トゥール(剥片石器)など多量に発見されている。カガヤン渓谷に「カガヤン原人」の骨化石を求めて発掘作業が行われている[9]。, 紀元前500年~紀元13世紀の間にマレー系民族が移住してきた。900年頃の日付が記録されているラグナ銅版碑文(英語版)などによれば、当時すでにカウィ文字(英語版)やバイバイン文字など複数の文化を受容出来る成熟した都市国家を形成していたことが明らかにされている。, 14世紀後半にイスラム教が広まった。中国(明)や東南アジアとの交易で栄えたが、7000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域に統一国家は形成されていなかった。, 西方から進出してくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断し東方から到来する。1521年、ポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)が率いるスペイン艦隊が、ヨーロッパ人として初めてフィリピンのホモンホン島に到達した。マガリャンイスはこの後、マクタン島を攻めたが首長ラプ=ラプらに敗れ戦死した。1494年スペインとポルトガルが結んだトルデシリャス条約でブラジルを除く新大陸(インディアス)がスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(初代総督)がセブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易が続いた。 『国旗の世界』では、国旗をテーマにした記事をメインに書いています。 1762年に、一時的にマニラがイギリス軍に占領されたが、1763年にパリ条約が結ばれ再びスペインの管轄下に戻った。18世紀になってスペインは南部への侵攻を開始したものの、西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。, スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。, ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の1つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。, 支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。 フィリピンの国旗は4つの色からなる国旗である。 白は平等と友愛を、青は平和、真実と正義を、赤は勇気と愛国心を象徴し、黄色い太陽は自由を意味している [1]。3つの星は主な島であるルソン島・ミンダナオ島・ヴィサヤ諸島を象徴している。 旗の実寸比率: スイス: 1:1: バチカン: 1:1: 国際赤十字: 1:1: アゼルバイジャン: 1:2: アラブ首長国連邦: 1:2: アルメニア: 1:2: ウズベキスタン: 1:2: オマーン: 1:2: カザフスタン: 1:2: クウェート: 1:2: スリランカ: 1:2: タジキスタン: 1:2: 北朝鮮: 1:2 ① 2:3 102旗 フィリピン国旗のデザインの原点となった旗は、香港に亡命していた革命家のエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)が、当時一旦休戦していたスペインからの独立戦争を、アメリカ軍の支援で1898年の5月に再開しましたが、その際に軍旗として掲げたのが最初といわれています。 その後、フィリピン革命軍はスペイン軍を打倒して、1898年6月12日、アギナルドはカビテ州カウィット(Kawit, Cavite)の自宅にて独立宣言をしました。その際に革命軍旗のデザインを元に国旗が採用されました。その後、幾度かのマイナーチェンジを経て1998年から現在のデザインとなっています。(以下はフィリピン革命軍旗と現在のフィリピン国旗), フィリピン国旗は縦横比1:2の横Y字デザインで4色からなっています。左の三角の部分が白ですが、そこに黄色で太陽と3つの星が描かれ、残りの部分は上半分が青、下半分が赤となっています。白は平等と友愛で、青は平和、真実と正義、赤は勇気と愛国心を象徴していて、黄色い太陽は自由を意味しています。 太陽から伸びる8本の光の線は、フィリピン独立戦争の際に最初に武器を取ったルソン島の8州(パンパンガ州、ブラカン州、リサール州、カビテ州、バタンガス州、ラグナ州、タルラック州、ケソン州)を表しており、3つの星はフィリピンの主な島であるルソン島・ミンダナオ島・ヴィサヤ諸島を象徴しています。 1901年からはアメリカがフィリピンを植民地にしますが、1907年から1919年10月30日まではフィリピン国旗の掲揚が禁止され、アメリカ国旗が使用されていたそうです。 なお、他の国旗にはない変わった特徴として、戦争の時には、旗の上下を逆にして、勇気と愛国心を象徴する赤を上にして国民の勇気を奮い立たせるそうです。第2次世界大戦中は逆さまの国旗が使われていました。 これに関して、2010年ニューヨークで開催されたアメリカと東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳会議(オバマ米大統領とアキノ比大統領が出席)では、フィリピン国旗が逆さになっており、アメリカ政府がフィリピン政府に謝罪しています。 日本でも、2016年にフィリピンのドゥテルテ大統領の来日を記念して、東京都内で開催されたフォーラムの際に日比関係を紹介するスライドショーで、上下が逆になったフィリピン国旗が映し出される一幕がありました。 国旗は国のシンボルですので、国旗を逆さまに掲揚するのは相手国への侮辱を意味しますので注意が必要です。 そして、フィリピンの国旗が戦争で2度と反対に掲揚されることがないように願っています。 ちなみに、2009年9月27日にフィリピンの議会は、スペイン植民地時代にも屈服しなかったムスリムに敬意を表し、光条を1本増やして9本とする議案を可決していますが、2020年9月現在、デザインはまだ改定されていません。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, ブログのタイトルには「昼行燈(ひるあんどん)」とありますが、特に敵討ちをしたくてフィリピンに来たわけではなく、海外暮らしなので、あまり目立たぬよう、現地に溶け込んで暮らしていきたいということです。ちなみにフィリピンは日本人にとって、ある意味、ファンタジーな場所(ゾーン)であると感じながら日々過ごしてます。. 国旗の縦横比ということがどうしても気になってしょうがない人がいるようですので、お約束どおり、全国旗の縦横比を表にしてお見せしましょう。, 全国旗と言っても、ここでは国連加盟国、日本政府承認国、主要な地域の旗、国際機関などを含み計210種類の旗についてお知らせします。スイスのように国旗の縦横比について法制化していない国もあるのですが、そうした場合には、通常、慣習的に製作されている国旗の縦横比を採りました。, その結果、一番多い縦横比は 日本から比較的近い距離にあるフィリピンですが、フィリピン国旗には、他の国ではあまり見られないユニークな特徴があります。 それはなんと、国の状況により国旗のデザインが変化するというもの。 [28]。, 基本的にフィリピンは親米的であり[要出典]、日本と同じく軍事的、経済的、政治的にアメリカとの関係が深い。フィリピンは植民地から独立したが、アメリカが介入した朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参戦し、現在行われている対テロ戦争にも参戦、反対世論が多かったイラク戦争(武装勢力によるフィリピン人拉致事件でフィリピン軍はイラクから全面撤退した)に同調し、東南アジア条約機構や米比相互防衛条約を結んでいる。 フィリピン共和国(フィリピンきょうわこく、タガログ語: Republika ng Pilipinas 、英: Republic of the Philippines )、通称フィリピンは、東南アジアに位置する立憲 共和制 国家。 首都はマニラ市で、最大の都市はケソン市である。. 「セブ島に旅したい!」と思うキッカケになるような情報をブログから発信ます。主にセブ島の面白いカルチャー、セブ島の魅力やお役立ち情報を紹介します。他のブログでは取り扱わないディープな情報もあるので要チェック♪セブ島ツアーなら「セブセレクトツアーズ」にお任せあれ!. また、多島海国家という特徴から島嶼間の移動は必然的に航空機または船舶を利用することになるため、各航空会社の路線網が発達している。, 以下の代表的な航空会社がある。(ここ数年、格安航空会社を中心に提携再編が繰り返されているので、最新の情報は要確認), マニラ南部ニノイ・アキノ国際空港近辺からカヴィテ州を結ぶSLEX(South Luzon Expressway)やケソン市からパンガシナン州を結ぶNLEX(North Luzon Expressway)といった高速道路があるが、短距離である。, 近年は、SCTEX (Subic-Clark-Tarlac Expressway) やSkyway(マカティ-ビクータン)等の路線も開通しているが、マニラ首都圏へ続く木の幹に当たるロハス通りの幹線道路に、全ての枝状の道路が集中する構造で、環状道路もエドゥサ通りしかなく、貧弱な道路インフラストラクチャーと相まって、道路信号なども充分に整備されておらず、深刻な交通渋滞が発生している[58]。, ごく短時間の間に、警察官による車線規制を行い、時間帯によって、1本の道路を上り専用、下り専用道路として運用されたり、複車線の道路も時間帯で上り下りの車線数が変更されることが有る。その他、マニラ首都圏では一部地域において月曜日から金曜日までの間、ナンバープレートによる流入車規制が行われている。, フィリピン全土では、アスファルト未舗装の道路も多く、道路舗装事情が良くないため、SUV四輪駆動車の需要が多い。, 長距離鉄道としてはフィリピン国鉄があり、ルソン島に鉄道網を持つ。北方線が1991年のピナトゥボ山の大噴火で全線運休し現在に至る他、台風などの自然災害で度々運休している。, 都市間輸送については、高速バスの方が早くて多頻度かつ経済的であること、航空網が整備されていることなどから、鉄道による旅客輸送は衰退している。鉄道車両は日本で使用されなくなった客車や国鉄203系電車が輸出され使用されている。, 都市鉄道としてはマニラ・ライトレール、マニラ・メトロレールの鉄道路線がある。マニラ首都圏の慢性的道路渋滞を解消するために建設された。料金は1路線につき10~15ペソ程度で運行本数も多く、市民の重要な足となっている。, フィリピンの国土は多数の島々から成るため、フェリーボート、貨客船の航路が発達しているものの、使用船舶は他国での中古船が多く新造船は殆ど無く旅客定員も改造によって安全基準を超過しているものもあり、安全に対する意識が低く、事故率も高い。例えば、ドニャ・パス号の事故などが知られる。, 人口が1億人を超えたフィリピンはマレー系を始めとする多民族国家である。タガログ族(英語版)・ビサヤ族(英語版)(セブアノ族(英語版)・ヒリガイノン族(英語版)・ワライ族(英語版))・イロカノ族(英語版)・ビコラノ族(英語版)・カパンパンガ族(英語版)・パンガシナン族(英語版)・モロ族(マギンダナオ族・バジャウ族(英語版)・ヤカン人(英語版)・タウスグ人(英語版)・サマル人(英語版)・en:Bangsamoro[要曖昧さ回避])・イヴァタン人(英語版)(台湾原住民)・華人・サンボアンゲーニョ(英語版)・メスティーソ・ネグリト(アエタ族・アティ族・バタク族[要リンク修正]・ママンワ族(英語版))・イゴロット族(ボントック族・イフガオ族など)・ティルライ族(英語版)など。, 現在ではフィリピン人とは、当たり前のことであるが、フィリピンに生まれ育った土着の人々の名称である。このような考え方は19世紀半ば以降に意識され始め現在に至っている。かつては、スペイン本国生まれのスペイン人と区別して、フィリピン諸島生まれのスペイン人を指して用いられた。彼らをフィリピーノ[60]あるいはクリオーリョ、そして、土着の人々をインディオといった。また、スペイン人や中国人の移住者の男性と現地の女性との間に生まれた子どもはメスティーソと呼ばれた。この背景には、インディオやメスティーソのなかの富裕層の子弟たちが、スペインの圧政に耐え兼ね、改革や自治を求めた様々な運動があったことが考えられる[6]。, フィリピンの主要民族はタガログ族であり、ルソン島のリサール州、ラグナ州、タルラック州、ブラカン州、バターン州などに住む、タガログ語は他のフィリピン諸語と同じく、オーストロネシア語に属する。これを母語とする者は2500万人以上と推計される。16世紀後半から約300年にわたるスペイン人の支配により、タガログ族の80%以上がカトリック教徒となっている。大半が木やニッパヤシでつくった小さな高床式の家屋に住み、水稲耕作を主とする農業を営んでいるが、主要な換金作物はサトウキビとココナッツである。19世紀から20世紀初頭にかけて起こった白人(スペイン人、アメリカ人)と日本人の植民地支配に対する革命運動で、最も重要な役割を演じた民族でもある。そのため、フィリピン国民の主要な英雄や、独立後の政府の指導者多く輩出している。ルソン島にはその他にもイロカノ族(人口約810万人)、ビコラノ族(人口約540万人。ビゴール語を話す)、カパンパンガ族(約人口300万人)、パンガシナン族(約人口110万人。但し、イロカノ族との混血が進んでいる)など、他にも多数の中小部族を抱えている。, 続く主要民族はビサヤ諸島(セブ島、パナイ島、レイテ島、サマール島)を中心として、ルソン島からミンダナオ北部にかけて居住する新マレー系住民のビサヤ族である。オーストロネシア語族に属するビサヤ諸語を話し、人口は2000万を超えると推定されるが、政治的に、社会的地位は、タガログ族が圧倒的優位を占めている。但し、一言にビサヤ族と言えど、実際には多数の部族が存在している。ビサヤ族の最大の部族はセブアノ族であり、セブアノ語を話し、セブ、シキホール、ボホール島などの各島に居住し、1200万人の人口を誇る。2番目の人口を有するヒリガイノン族の人口は約700万人であり、ヒリガイノン語を話し、パナイ、西ネグロス、南ミンドロなどの各島に居住している。3番目にはワライ族であり、人口は約310万人。ワライワライ語を使用し、サマール、東レイテ、ビリランの各島に居住し、おもな生業は水田耕作による水稲栽培であるが、一部は漁労や商業にも従事している。主食は米、魚、野菜、果物である。双系親族、儀礼的親族を有する。かつてはラオンと呼ぶ至上神を信仰し、アニミズム信仰も盛んであったが、現在はほとんどキリスト教に改宗している。他にも多数の中小部族が存在している。そのため、マニラ中心の中央政府と協調関係を取りながらも、独自の文化、習慣、言語、民族性を保持している州政府が多い。, ミンダナオ島などの南部にはイスラム教徒のモロ族(バジャウ族・ヤカン人・タウスグ人・サマル人など)が存在する。, フィリピン華人の大部分は中国福建省南部(特に晋江)の出身である[61]。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血(メスティーソ)が進んでいる。元大統領コラソン・アキノも福建華人の子孫であり、フィリピン独立の英雄として知られるホセ・リサールも中国系移民の系譜を持つ[61]。現在でも中国語(福建閩南語)を話し、中国の習慣になれている者は100万人程度と推定される。苦力出身者がほとんどおらず、商業移民が中心となっている[62]。中国系移民の総人口に占める割合は比較的小さいが、2012年6月にフォーブズが発表したフィリピンの富豪上位10位の7割を中国系移民及びその子孫の企業グループが占めているように、経済的成功者も多く、フィリピン社会への影響力は大きい[61]。, フィリピンの華人は、スペイン統治時代に幾度も排斥政策を取られたことから、存続のため、現地社会との融合度が高く、現地人との通婚が進んでおり、仏教を捨ててカトリック教会への改宗者も多い[62][61]。また、フィリピンが反共を掲げた経緯から、同じく反共を掲げ、西側陣営に属した台湾(中華民国)との関係が深い。フィリピンの華人社会で使われる漢字は、台湾と同じ繁体字である[62]。, 過去数百年で中国系(華人)やスペイン人(サンボアンゲーニョ(英語版))との混血が進み、混血率は高い。地域によって混血率は違い、スペイン統治時代に重要な軍港であった地域、特にサンボアンガでは、スペイン人との混血率が高い。混血者はラテンアメリカと同様にメスティーソと呼ばれる。外国へ出稼ぎに行く国民が10人に1人はいる出稼ぎ国家で、外国で働く労働者が多いため、その他の混血の人も多い。その中でも、日本人・アメリカ人とフィリピン人のハーフが多い。, 山岳地帯のネグリト、ボントック、イフガオなどがいる。フィリピン各地の山岳地帯や南部のミンダナオ島、スールー諸島、パラワン島の住民は中北部の低地住民とは文化や生活様式を異にしてきた人々を少数民族という。これらの人々は全人口の10%前後であるといわれている。南部に住むムスリム(モロ族)と各地の山岳地帯に住む住民の2つに分けられる。アメリカは、少数民族を「非キリスト教徒部族民」と名付け、後進的な野蛮人と見なした(モロの反乱(英語版))。これらの少数民族からも国会議員や地方議員が出ているが、彼らは地域の「ボス」であることが多く、少数民族の利害や権利は政治に反映されなかった。差別の原因を宗教の違いにされたり、無知からくる偏見にさらされた[63]。, 1960年の人口は、27,087,685人。1980年の人口は、48,098,460人。2005年の人口は、87,857,473人。2010年の人口は92,337,852人。2015年の人口は100,981,437人と人口爆発が続いている[2]。, 2014年7月27日に、公式に1億人を突破したと発表した[64]。国連等の推計では、2030年には1億1千万人、2040年には1億2千万人、2050年には1億2千7百万人になるとされる。, 国語はフィリピン語 (Filipino)、公用語はフィリピン語と英語であるが、母語として使われる言語は、合計172に及ぶ。これらのほとんどはアウストロネシア語族に分類されるが、アウストロネシア語族の言語間にも、ほとんど意志の疎通が図れないほどの違いがある。他に使われる言語には、スペイン植民地の歴史を反映してスペイン語(フィリピンのスペイン語)やチャバカノ語(スペイン語とそのクレオール言語)がある。なおスペイン語は、1986年まで公用語の位置にあった。フィリピン政府は各地で英語とフィリピン語が使われている事実を持ってして公用語であると宣言しており、スペイン語やアラブ語(イスラム教徒)が自発的な運動により公用語になりうる事も示唆している。, フィリピン語 (Filipino) は、1987年に成立したフィリピン共和国憲法において、初めて国語を言い表すのに正式に採用された人工言語である。実質的にはマニラ首都圏を中心として話されている地方語の1つである『タガログ語 (Tagalog) 』を基にして採用された言語である。そもそもフィリピン国内では、ルソン島やミンダナオ島、セブ島を含む7100以上の島々からなる地域において、タガログ語をはじめ、セブアノ語(セブ語、ビサヤ語)、ボホラノ語(英語版)、ワライ語、ビコール語、ヒリガイノン語、イロカノ語、パンパンガ語の8大言語[67]を含む100近い言語集団があると言われている。, アメリカ合衆国の植民地であったこともあり、アメリカ英語がかなり普及しているが、ナショナリズムの高まりと共に政府はフィリピンが一体となって発展していくためには国内全域で通用するフィリピンの共通言語が必要であるとし、タガログ語を基本としたフィリピン語を作り普及に務めてきた。1934年のタイディングス・マクダフィ法を受けて、同年に開かれた憲法制定委員会で、公用語や国語の問題が話し合われ大論争となった。最終的には、固有の1言語を基礎として国語の確立をすることで収まった。これを受けて、1937年、ケソン大統領がタガログ語を国語の基礎として選択するという宣言を行った[68]。, フィリピンのキリスト教社会では、名前は西洋式に「名、ミドルネーム、姓」の3つの部分からなる[注釈 12]。その場合、未婚者および男性は母親の旧姓を、結婚して夫の姓となった女性は自分の旧姓をミドルネームとしていることが多い。ミドルネームはイニシャルのみを記す場合と、そのまま書き表す場合がある。スペインによる長い植民地支配時代の間に、地元民はスペイン人の姓から選んで名乗ってきたため、フィリピンではスペイン語姓が主流であるが、華人系の姓も多い。名は旧来のスペイン語の名前に加えて、英語その他主にヨーロッパ系の名前が自由につけられている[注釈 13]。, 婚姻の際には、従来の法律では、結婚時に女性側は、自分の姓をミドルネームとして相手の姓を用いるか、相手の姓のみを用いるか、相手のフルネームにMrs.をつけるか、を選ぶことが可能、とされていたが、2010年に、最高裁判所は、女性の権利を守る観点から、これらに加えて、相手の姓を用いず自分の姓のみを用い続ける(夫婦別姓)ことも可能、との判断を下した[69]。, フィリピンは、バンサモロ自治地域を除けば、東南アジアでは東ティモールと並ぶキリスト教国である。キリスト教は、スペイン植民地時代に広まった。スペインが16世紀に伝えたものは、ローマ・カトリックであった。そのため、今でも人々のほとんどが、ローマ・カトリックの信者である。, キリスト教徒は、フィリピンの全人口の90%以上を占める。2000年の国勢調査では、カトリックが82.9%(カトリック教会が80.9%、アグリパヤンが2%)、福音派が2.8%、イグレシア・ニ・クリストが2.3%、その他のキリスト教が4.5%を占める[70]。, 2000年の国勢調査でのキリスト教の他の宗教は、スペイン人到来以前にもたらされたイスラム教が南部ミンダナオ島を中心に5%、その他が1.8%、不明が0.6%、無宗教が0.1%である[70]。イスラム教やキリスト教が入ってくる以前は、各島の自然の精霊などを信じる原始宗教(フィリピン神話)があった。(フィリピンの神話上の生き物も参照されたい), フィリピン共和国憲法に政教分離の規定は存在するものの、カトリック教会の影響は強く、フィリピン司教協会は離婚法や人工妊娠中絶や避妊に対して反対し、政治家に対して政治介入しており、フィリピンで人口爆発と貧困が続く一因となっている。また、結婚があっても離婚自体が法律上無い国家として有名であり、法的離婚制度が無いのは、バチカン市国とフィリピンのみである[71]。, 2008年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%(男性:95%、女性:95.8%)である[70]。2009年の教育支出はGDPの2.9%だった[70]。, 教育政策として高等教育を重視しているのが特徴である。これはスペイン植民地時代から引き継いでいる。高等教育の就学率は27.4%(1995年)で、アジアの中でも高い方であり、高等教育機関は、国公立・私立合わせて1489(2003年)もの大学が存在する。その中でも聖トマス大学は、アジアでも最古で、1611年の創設であり、在フィリピンのスペイン人に聖職者教育を施すことを目的とした。1908年に設置されたフィリピン大学は、アメリカ統治時代のもので、英語でアメリカ式の教育を行い、現地調達の行政官や大学教員を育てることが目的であった[72]。, フィリピン料理は、中国やかつての宗主国であるスペインとアメリカの食文化の影響を受けている[73]。フィリピンは国際捕鯨委員会 (IWC) を脱退しており、現在でも食用に捕鯨を行っている。, フィリピンの初の近代小説はペドロ・パルテノ(英語版)による『ニノイ(英語版)』(スペイン語: Nínay、1885年)によって幕を開き、そのすぐ後にスペイン語で書いた2作の小説、『ノリ・メ・タンヘレ(英語版)』(1886年)と『エル・フィリブステリスモ(英語版)』(1891年)でスペインによるフィリピン植民地支配を告発したホセ・リサールが現れた[74]。米比戦争によって20世紀初頭にアメリカ合衆国に併合された後、公教育を通じて英語が教えられると、1925年頃から英語による作品が書かれるようになり、また、1939年にフィリピン作家連盟が結成されている[75]。他方、20世紀前半の現地語による文学は大衆娯楽小説が主であり、第二次世界大戦中の日本占領期にタガログ語創作が奨励されたものの、第二次世界大戦終結後は再び英語が文学語として重視されるようになった[75]。, 20世紀後半の文学は英語、タガログ語、その他のフィリピン地方言語などの様々な現地語で書かれた[76]。著名な作家としては、『二つのへそを持つ女(英語版)』(1961年)でフィリピン人のアイデンティを題材にしたニック・ホアキンや、英語で『ロザレス物語(英語版)』五部作(en:Po-on (novel)、en:The Pretenders (novel)、en:My Brother, My Executioner、en:Mass (novel)、en:Tree (novel))、『エルミタ(英語版)』などを著しフィリピン近現代史を題材にしたF・シオニル・ホセ、タガログ語で『マニラ 光る爪(タガログ語版、英語版) (Maynila: Sa Mga Kuko ng Liwanag)』(1968年)を書いたエドガルド・M・レイエスらの名が挙げられる[77](後に映画化された『en:Mga Kwento ni Lola Basyang』)。, フィリピン武術(エスクリマまたはカリ、アーニスと呼ばれる)がフィリピンの国技である。他にも地方や種族によって様々な武術がある。徒手空拳術と武器操作術のバランスに優れたフィリピンの武術は実戦的であるとして評価が高く、各国の軍人や警察官のほか、他の武芸・格闘技の使い手や映画俳優などにも愛好者が多い。, スポーツでは、室内競技であるバスケットボール、ボクシング、ビリヤード、バドミントンなどが人気を集めている。特にバスケットボールは、アジアにおいて初めてのプロリーグであり、NBAに次ぐ歴史を持つフィリピンプロバスケットボールリーグ (PBA) を立ち上げ、国民的人気を誇る。また、ワールドカップ(旧:男子世界選手権)でのフィリピン代表は1954年にアジア最高位の3位の記録がある。, ボクシングやビリヤードは世界チャンピオンを多く輩出している。「アジアの怪物」と呼ばれているボクサーマニー・パッキャオや、ビリヤードのエフレン・レイズなどはその世界では伝説的である。パッキャオの世界的活躍は彼を祖国の英雄へと押し上げ、後に続くフィリピン人ボクサーの米国での成功や世界的評価の急上昇という好循環を齎している。, その他、チアリーディング、バドミントン、バレーボール、ソフトボール、ゴルフ、テニスなども人気がある。空手なども行われており、ボクシングを含めて格闘技が盛んである。熱帯性の気候から、激しい運動を伴う屋外スポーツ競技は、あまり人気がない。, ミス・コンテストが地域に根付いており、学校単位でのミス&ミスター・コンテストや全国単位でのミス・コンテストが盛んである。ミス・ユニバースのフィリピン代表は3回優勝している。, 2001年にフィリピンで誕生したミス・アースも現在では世界四大ミスコンテストに数えられるほどに成長した。, フィリピン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が3件存在する。, インドネシア | シンガポール | タイ | フィリピン | マレーシア | ブルネイ |  ベトナム | ミャンマー | ラオス | カンボジア, 座標: 北緯14度35分 東経120度58分 / 北緯14.583度 東経120.967度 / 14.583; 120.967, 例えば、2010年代であれば、2010年、2013年、2016年、2019年の4回である。, 35年憲法改正の準備は196年代の後半から本格化し、1970年11月の憲法制定会議代議員選挙で320名選出される。, 被害者総数は120万人に他するほどであった。一方、農業に適した養分を含む土地も形成した, 1960年から2000年代中頃までに約1万件の地震が観測されている。1990年7月に中部・北部ルソンを襲った大規模地震は7州に被害を及ぼし、120万人以上が被災した。葉山アツコ「自然・地理」, ただし最近では、スペイン語よりも英語の名前が主流となっている。例:Miguel、Margarita → Michael、Margaretなど。, 日本と比米との激しい戦闘で全土が焦土と化し、およそ111万人以上の犠牲者と60億ドル(1950年価格)にのぼる物的損害を出した。(, オアフ島の小高い丘の中腹に建つ敷地面積約500坪の豪邸で一家が亡命生活を送った。すでに腎臓病などが悪化し3年半後の1989年9月死亡した。72歳であった。(, 世界遺産のサンゴ礁破壊で高まる反米感情 モン・パラティーノ “ Newsweek(ニューズウィーク)日本語版 ”2013年2月12日号, 二宮書店編集部 『Data Book of the World (2012年版)』 二宮書店 2012年 234ページ, Highlights of the Philippine Population 2015 Census of Population, World Economic Outlook Database, April 2014, https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/philippines/data.html, “フィリピン、「真の独立」のため国名変更?:議員が提案、候補には「カタガルガン」や「マハルリカ」など”, https://jp.wsj.com/articles/SB10450239983503033595904583204531475610340, https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41197590T10C19A2EAF000/, http://www.ide.go.jp/Japanese/Serial/Poverty/200506/07.html, “Japan may give planes to Manila for South China Sea patrols - sources”, http://www.abs-cbnnews.com/nation/08/06/15/japan-may-give-planes-manila-south-china-sea-patrols-sources, The World Factbook — Central Intelligence Agency, http://www.afpbb.com/articles/-/3027289?ctm_campaign=txt_topics, http://www.jica.go.jp/activities/issues/poverty/profile/pdf/philippines_fr.pdf, http://www.crossworldmarine.com/index.php?option=com_content&view=article&id=85:philippines-one-of-the-worlds-leaders-in-shipbuilding&catid=6:press-releases&Itemid=26, http://www.globalsecurity.org/military/world/philippines/industry-shipbuilding.htm, https://web.archive.org/web/20120711125757/http://www.census.gov.ph/data/quickstat/qs0909tb.pdf, http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/HE10Ae02.html, ftp://public.dhe.ibm.com/common/ssi/ecm/en/gbl03012usen/GBL03012USEN.PDF, http://www.abs-cbnnews.com/business/03/21/12/bpo-industry-generate-100000-jobs-year-wb, http://business.inquirer.net/53163/it-bpo-revenue-reached-11b-in-2011, http://www.pinoy-ofw.com/news/21364-itbpo-sector-sees-274b-revenues-2016.html, http://www.huffingtonpost.jp/naoji-shibata/trafic-jam-of-manila_b_9184818.html, フィリピンの中国系移民と中国との関係 福建から香港ルートへの傾斜と教育・言語の問題を中心に, http://www.newsweekjapan.jp/nojima/2016/05/post-1.php, Philippine population officially hits 100 million, Population of the Philippines : Census Years 1799 to 2010, http://famli.blogspot.jp/2008/04/miss-ms-or-mrs-philippine-law-on.html, http://sankei.jp.msn.com/world/news/121208/asi12120818010002-n1.htm, フィリピン文学における日本兵の描写 : 1920年代から80年代までの作品を中心に, Health Information for Travelers to Philippines, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フィリピン&oldid=79471817, 早瀬晋三『歴史研究と地域研究のはざまで-フィリピン史で論文を書くとき』法政大学出版局, 関恒樹『海域世界の民族誌-フィリピン島嶼部における移動・生業・アイデンティティ』世界思想社, 作本直行『アジアの民主化過程と法-フィリピン・タイ・インドネシアの比較』日本貿易振興会アジア経済研究所, 五十嵐誠一『民主化と市民社会の新地平-フィリピン政治のダイナミズム』早稲田大学出版部, 小野行雄『NGO主義でいこう-インド・フィリピン・インドネシアで開発を考える』藤原書店. 【#cancelkorea】韓国人がフィリピン国旗に唾を吐き破り捨てる動画を投稿 記事要約:あほ過ぎて呆れているが、韓国人て火病すると止まらないようだ。韓国人がフィリピン国旗に唾を吐き破り捨てる動画を投稿したことでネットで話題になっている。 Pulog) である。, プレート境界付近の環太平洋造山帯に当たる地域であることもあり、プレートテクトニクスの影響で、火山が点在し、地震の頻発地帯としても知られる[注釈 11]。また、鉱物資源に富み、金鉱床は南アフリカに次ぐ規模を誇り、銅鉱床は世界規模で、ニッケル・クロム・亜鉛も多い。地熱発電は電力需要の18%を賄い、アメリカに次ぐ量である。, 220万平方kmに達する領海には豊富な海洋資源があり、魚類は約2400種、サンゴは約500種が生息していると言われる。アポ・リーフはオーストラリアのグレート・バリア・リーフに次ぐ規模のサンゴ礁である。, スプラトリー諸島(南沙諸島)で領有権問題を抱えている。違法伐採による森林減少も大きな問題である。, 全国的に、日本のような詳細な地図・道路地図は発行されておらず書店、空港などで購入できる地図も、非常に大まかなものである。むしろインターネット経由でGoogle マップを閲覧した方が、詳細な地図情報を得られる。, フィリピンの気候は熱帯海洋性で、1年の大半は暑く湿度が高い。季節は夏と秋のみで、3月下旬から10月上旬が猛暑日で10月下旬から3月上旬が涼しく乾燥している。3月から5月は初夏、6月から10月は雨季の季節になる。秋にはハロウィンやクリスマスのイベントを祝っている。南西からと北東からの季節風がある。気温は21 ℃から32 ℃で、1月が最も低く、5月が最も高い。, 台風の通り道にあたり、7月から10月にかけて付近を通過する台風が多く、年間では平均19回通過する。フィリピンのはるか東の西太平洋海上で6月から12月にかけて熱帯低気圧が多く発生し、西に進み、一部は台風にまで発達して、フィリピンやインドシナ半島に進むものがある。なお、季節風の影響を受ける地域ながら、海に囲まれているために、冬季に卓越する北西からの季節風も、夏季に卓越する南西からの季節風も、いずれも降雨をもたらす[40]。ただし、先述の台風の影響もあって、特に5月から11月にかけて多雨となる[40]。なお、年間降水量は東部海岸山岳地帯で最大5000 mmに達することがある。, CIAによると、フィリピンの2017年の購買力平価GDPは8756億ドルである。1人当たりでは8300ドルであり、世界平均の半分ほどである。フィリピンの経済は、輸出への依存度の低さ、比較的堅調な消費、1000万人を数える出稼ぎ労働者による海外からフィリピンへの仕送り、急成長するサービス業により、世界経済の混乱の中で比較的安定を保ってきた。2017年には、大胆なインフラストラクチャー支出の発表の影響もあり、2008年の世界金融危機以降初めて経常赤字に陥った。ただ、海外からの仕送りや金融システムは安定している[41]。ただし、国民の貧富の差は大きく[42]、都市部ではパグパグなどの問題も発生している。, フィリピンは他の東南アジア新興国と同様に基本的には農業国であり、全人口の約40%が第一次産業に従事している。熱帯に属することから多種多様な作物を作ることが可能で、サトウキビやココナッツ、コプラ、マニラ麻、タバコ(主に葉巻たばこ用)、バナナなどの生産が盛んである。, 主食用にはコメ、トウモロコシを産し、特に米の生産が多く、毎年約1500万トンもの米を産出する世界第8位の米生産国であるが、その自給率は低く、大量の米を輸入している。特に米に至っては世界最大の米輸入国であり、アジア有数の農業国でありながら、大量の食糧を世界から輸入するというジレンマに陥っている。, そのことが、フィリピンの社会問題となっており、2007年-2008年の世界食料価格危機には政治的に大きな影響を受けた。その根本原因には過剰な人口(人口爆発)と、過酷な貧困問題に加え、前近代的な農法から来る農業生産性の低さと、フィリピン政府・官僚の腐敗、外貨を得るために輸出商品作物の栽培に偏っているなど、様々な原因が指摘されている。, かつては緑の革命により、1970年代から1980年代を通して米の大増産に成功し、米自給率100%を達成し、米輸出国となったが、1990年代に入ると、緑の革命は頭打ちを迎えるようになり、生産量の横ばいになり、あるいは化学肥料の使いすぎ、水資源の枯渇などで生産量の減少さえ引き起こし、工業化による農地減少もあって、再び米輸入国に逆戻りしてしまう。現在も食料の自給率は遅々として回復せず、国民の生活は昨今の穀物価格の高騰やベトナム政府の米輸出制限措置の影響を大きく受けている。漁業は全国で幅広く行われるが、自給用の小規模なものが多い。, 豊富な森林を有しているため、林業は盛んであり、マホガニー、ラワン材なども重要な輸出品となっている。アメリカ領土になった当時の1898年、国土の70%は森林で覆われていた。航空写真での森林調査が始まった1968年には、55.5%が残されていた。しかし、1981年の調査では40.8%にまで減っていた。そして原生林は森林面積の13%ほどしかない[43]。森林の減少は21世紀に入っても続き、2003年に256万haの面積であった閉鎖林(面積の40%以上が樹木に覆われた森林)は、2010年に193万haにまで縮小。旧来型の焼畑農業の拡大や新たな農地を森林の開墾により求める手法は、地域住民の貧困の解消と森林の破壊をトレードする図式となっており歯止めがかかりにくい状況になっている。2010年代に入るとベニグノ・アキノ大統領は、森林回復に向けた植林プログラムを実施。2016年までの大統領在任中に150万haの面積に15億本の苗木を植えるという目標を打ち出している[44]。, アメリカによる植民地政策では農業政策が失敗し、スペイン時代のプランテーション農業に基づく地主と小作人の関係が現在も続いている。この地主は全国に数十人おり、彼らの家族が国土の半分以上の土地を所有している。農村部では半数以上が1日1ドル以下の生活をする最貧困層で、これがミンダナオ島イスラム教地域では更に75%以上が最貧困層とされる。こうした貧困の緩和を目指して、政府は農業・農村開発プログラムとして、農業省(DA)及び農地改革省(DAR)を中心に農業の近代化やインフラ整備を進めようとしている[45]。, 植民地時代・独裁時代に一部の特権階層が経済を独占してきたアシエンダ制(大農園)の影響が残っており、財閥による寡占状態にある。Andrés Sorianoによって急成長したサンミゲル醸造所(英語版)を傘下に収めるサン・ミゲル社、不動産開発で成功したアヤラ財閥、砂糖プランテーションから不動産開発に多角化したアラネタ財閥(英語版)、Ortigas Centerを所有するオルティガス財閥(英語版)、ミンダナオのバナナプランテーションや銃器メーカーArmscorで有名なツアソン財閥 (Tuason Family)、コラソン・アキノの父Jose Cojuangcoの興したホセ・コファンコ・アンド・サンズ (Jose Cojuangco and Sons Inc., JCSI) 社を擁すコファンコ財閥、Alfonso Yuchengco率いるユーチェンコ財閥 (Yuchengco Group)、John Gokongwei率いるコーヒー会社や食品会社Universal Robinaで有名なゴコンウェイ財閥 (Gokongwei)、ヘンリー・シィ(英語版)率いるSMプライムホールディングス(英語版)を擁すシューマート財閥 (SM Investments Corporation)、マリアノ・ケ (Mariano Que) 率いるMercury Drugなどが知られている。, フィリピンは鉱物資源(銅・金・ニッケル・クロム等)に恵まれた国で、かつてはインドネシアに次ぐ東南アジア有数の鉱産国であったが、1980年代から衰退し始め、銅の生産量は1980年の30万トンをピークに落ち込みが続き、2000年には3万トンしか生産されず、この20年間で銅生産量は10分の1にまで落ち込んでいる。これは、生産コストの上昇、金属価格の低迷によって引き起こされ、さらに1986年に起こったマルコス元大統領の亡命に見られるような政治的、社会的不安が鉱業の衰退に拍車を掛けた。1994年の鉱産税の減税、1995年の新鉱業法制定により、鉱業の再生が進むものと見られたのにも拘らず、その後も鉱業は冷え込んでいる。操業中の鉱山も2001年には12鉱山(金鉱山3、銅山4、ニッケル鉱山3、クロマイト2鉱山)となっている。しかし、未開発の鉱山もまだまだ多数存在しているとされており、北スリガオ州、マニラなどで優良な金鉱や銅鉱が発見されており、セブでも新たに金、銅、亜鉛を含む多金属鉱床が発見されており、フィリピン鉱業の潜在能力は非常に高いものである。, フィリピンは工業の中心は食品加工、製糖、製剤、繊維などの軽工業が中心である。近年では電子部品の生産も盛んである。フィリピンの工業化はマルコス政権時代から図られ、新中国やベトナムなどの共産圏と対峙するために、反共の砦としてアメリカ合衆国に軍事的・政治的に従属する代わりに莫大な支援を受けて、マルコス独裁のもとに開発独裁を進めた結果、農業国から軽工業国へと変貌を遂げ、1960年にはフィリピンは東南アジアで最も豊かな国となった。, しかし1980年を境に、1人当たりの所得は次第に頭打ちとなり、独裁による政治腐敗や1983年に発生したアキノ上院議員の暗殺事件などを経て、1986年のエドゥサ革命によりマルコス政権が崩壊する。, そして、もともと脆弱だったフィリピンの社会情勢は一気に政情不安状態に陥り、フィリピン共産党系の新人民軍やイスラム教が主流を占めるモロ族との内戦状態が激化すると、次第に外国企業にとって「ビジネスのやりにくい国」「投資のしにくい国」「規制の多い国」になり、タイ王国やマレーシアやベトナムなど、他のASEAN諸国が急成長するなかで『東南アジアの病人』と言われるほど、フィリピンの経済成長が伸び悩んでいく。, フィリピンのインフラストラクチャーも極めて貧弱で、とりわけ高速道路・鉄道・電力やエネルギーなどの社会資本の立ち遅れなどが、工業化を妨げる1つの要因となっている。その代わりに、重工業化がタイ王国などに比べると、まだ進んでいないため、皮肉にも今のところは原油価格の変動を受けにくいとも言える。, また、フィリピンはその地理から、天然の良港が多数あることを生かした造船業が盛んで、2010年現在では造船業で世界第4位の規模を誇る[46][47]。日系・独系などの自動車メーカーの組立工場は、カビテ州やラグナ州に集中し、エアバス・ボーイングの航空機部品工場は、バギオ市近郊に集中する。, ビジネス・プロセス・アウトソーシング (BPO) は観光と並び、今後フィリピンで最も成長するであろう産業だと見られている[48][49]。特にコールセンター業が有名で、労働力が安価であることと教育水準が高いことに加えて、元々アメリカの植民地であり公用語が英語ということもあり、欧米企業に人気がある。2010年にはインドを抜いて世界最大の委託先となっている[50][51]。BPOの雇用者数は2005年には約10万人だったのが2012年には約70万人に増加しており[52]、年間110億ドルを売り上げている[53]。2016年にはさらに約130万人の雇用と年間274億ドルの売り上げを生み出すと予測されている[54]。, その他にも、近隣の日本や韓国など非英語圏の国からの語学留学先としても人気があり、近年多くの人が英語留学に訪れている。, 中東地域などに建設労働者、メイド、家政婦として出稼ぎを行うフィリピン人は多く、彼らが本国へ送金する仕送り額は2016年現在、1兆2780億ペソと名目GDP比率で8.8%に相当する額となっている[55]。ただし彼らが勤務先で良好な労働環境に恵まれているとは限らず、しばしば虐待に遭う被害を受け、国際問題化することもある[56]。, セブ島やボラカイ島など、リゾートを中心とした観光業が重要な産業となっており、より観光客や工業投資を誘致するため、観光地の州政府はインフラ整備に余念がない。またカジノも、多くの観光客を惹き付ける魅力の1つとなっている。, 逆にフィリピン人が、アジアに訪れる観光地トップ5の2015年データは、表の通りになっている。, グロリア・アロヨ政権時代の4.5%と比較し、2011年から2017は平均して6%以上の経済成長を達成し、IMD世界競争力ランキングの順位を上げた。2017年には直接投資が過去最高となったものの、憲法や各種法規が、海外資本による直接投資の妨げや、海外資本の土地や公共事業体の所有の制限となっているため、地方への海外資本の直接投資は限られている[57]。, ニノイ・アキノ国際空港、マクタン・セブ国際空港、クラーク国際空港などがフィリピンの空の玄関として機能している。